水産市場の歴史
松山市における魚市場の歴史は古く、今から約500年前の応仁元年(1467年)に、河野通春が港山城主(現在の水産市場荷受所北東約300m)となり、毎朝城兵の米穀魚菜を近郷の民より買上げ、ここに多人数集合市場ができ、それが今に名高い「三津の朝市」の発祥とされる。また、150余年後の元和2年(1616年)4月15日、松山藩主加藤嘉明当時に下松屋善衛門が魚を売買したのが始まりともいわれている。いずれにしても瀬戸内海の好漁場を背景に魚の取引はかなり以前より発達していたものと思われる。
- 寛文3年(1663年) 松山藩主,松平定行が家老である三津の天野作佐衛門ほか2名 に対し魚問屋を申し付け、鮮魚の問屋17名としてこれに出入する漁夫を定め、また5里以内には魚市場を開かせないようにした。
- 元文2年(1737年) 三津須先町砂浜に毎朝魚問屋を集めて吟味の後、監督の下に円陣を張り取引させた。
- 次第に市場としての形態を整えていった。
- 明治5年(1872年) 魚問屋16名が共同して魚市場を設立した
- 明治13年(1880年) 明治に入り欧米の資本主義経済の導入により、その影響を受けた別の魚問屋15名は、株式会社を設立し、魚商人108人と特約し取引を行うようになった。
後にこの両市場は合併し、資本金1,600円の会社を設立。 - 明治21年(1888年) 直径18間(約36m)、254坪(約838平方メートル)の円型市場を建設、営業。
- 昭和2年(1927年) 三津浜町が231,500円で魚市場を買収し、町営市場となる。
- 昭和15年(1940年) 三津浜町が松山市と合併して松山市営魚市場となった。
- 既に、昭和12年7月の日華事変後、我国経済は戦時統制経済下にあり、昭和15年8月の「生鮮食料品の配給及び価格の統制に関する件」の発効を契機に、昭和16年中に生鮮食料品には公定価格が設定され、同年4月には鮮魚介類の配給統制規則を公布、完全な配給統制時代に入ることになる。
- 昭和19年(1944年) 魚市場の営業は愛媛県水産業者に委嘱し、鮮魚統制社会と配給店による配給制度となる。
- 昭和20年(1945年) 7月27日の松山大空襲には幸いにも三津地区は難を免れた
- 終戦を迎え市場においても多難をきわめた。公定価格と配給統制の撤廃は悪性インフレーションを生み、昭和21年3月、水産物は再び統制経済下に入りやみ行為を厳重に取締らなければならない有様であった。このため水産物の統制は昭和25年3月まで続けられた。
- 昭和27年(1952年) 松山市議会は魚市場の開設を決議、再発足させた。
- 昭和28年(1953年) 昭和29年度までの2ヶ年で総工費4,300万円をかけ、卸売場(800平方メートル)等を鉄筋造で建設
- 県においては、魚市場条例、同施工規則制定が公布
松山市においても魚市場設置条例、手数料、使用料条例が制定、公布された。
- 県においては、魚市場条例、同施工規則制定が公布
- 昭和30年(1955年) 7月、完成と同時に営業を開始した。
- 昭和33年(1958年) 松山市は魚市場新構想を提示、卸売人を8業者に統合し、仲買人(買受人)6組合を結成させ、団体取引契約を締結して新体制が発足した。
- これにより松山市における水産物の流通事情は、鮮魚関係が2市場(うち1市場は民営)9業者、塩干乾物関係が19業者となり、これらが中心となって水産物の集荷卸売を行うという状況であった。しかし、総体的に規模が小さく、市内に散在しているために都市の発展、需要の増大に伴って施設の狭隘、老朽化の度ははなはだしく、需要に応じた取扱いが困難な市場が多く、供給の多少によって価格が著しく変動するといった不安定な経営を余儀なくされていた。
- 以上のようなことから流通機構の改革、充実が望まれ、業界及び生産者、消費者の代表者で構成された松山市中央卸売市場設置促進協議会より、中央卸売市場建設促進の陳情書が市長及び市議会議長へ提出
- 昭和40年(1965年) 9月、定例松山市議会で中央卸売市場建設促進の陳情書が採択
- 昭和44年(1969年) 12月、松山市は総合市場方式により中央卸売市場建設用地を久万ノ台に購入(91,327平方メートル、5億2,000万円)
- 昭和45年(1970年) 11月、松山市中央卸売市場指定区域及び開設区域が決定された。
- 総合市場方式或いは青果と水産物部門を分離する分離市場方式については当初より意見が分かれた。
- 昭和47年(1972年) 9月、定例松山市議会において分離市場方式による水産市場の三津への設置を求める請願書が不採択となるに及んで、この問題は一応の決着をみた。
- この間、昭和43年7月から47年6月に至るまで「三津の朝市を守る会」を中心とする団体は16回にわたり水産市場の三津への設置を請願していたものである。
- その後、松山市は再三にわたり総合市場方式による説得を行ったが、関係者、特に「三津の朝市を守る会」の理解は得られなかった。
- 昭和52年(1977年) 松山市は中央卸売市場整備にかかる調査を財団法人食品需給研究センターへ委託した。
- 結果、水産物部の設置は分離市場方式により松山港埋立地に立地することがより良いとの見解を示した。この報告書に基づき、松山市及び市議会は分離市場方式を採用、推進する方向で調査研究することを決定。
- 9月、市長の諮問機関である松山市中央卸売市場開設運営協議会より、分離市場方式が望ましいとの答申を受けた。
- 昭和53年(1978年)
- 4月、松山市中央卸売市場整備計画の変更(水産市場の分離設置と青果市場への花き部の併設)が官報で公表された。
- 7月、水産物地方卸売市場の卸売業者8社より、中央卸売市場入場のための新会社2社に統合するグループ別の確認書が提出された。
- 10月31日、松山市は愛媛県より水産市場建設用地として三津ふ頭を購入
- 11月30日、水産市場建設工事総合設計を株式会社梓設計大阪支店へ委託、建設は昭和54、55年度の継続事業として株式会社大林組四国支店が施工
- 昭和55年(1980年) 12月28日、水産市場完成
- 昭和56年(1981年)
- 3月24日、3月定例松山市議会において中央卸売市場業務条例を改正、名称を松山市中央卸売市場水産市場とした。
- 9月16日、卸売業者2社、仲卸業者17社、売買参加者265名、買出人189名、関連事業者11店、金融機関2行で中央卸売市場として業務を開始した。
- 平成23年(2011年)
- 3月31日、名称を松山市公設水産地方卸売市場に改名した。
運営協議会は、売買環境委員会・市場活性化委員会を設置しており、「売買取引に関すること」「市場内秩序維持・火災予防に関すること」また、「市場内の環境衛生等に関すること」を売買環境委員会、「市場活性化に関すること」を市場活性化委員会で協議している。
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